夏目漱石 青空文庫

 虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱(か)い込(こ)んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当(けんとう)がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声(かけごえ)をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇(ねんごろ)に説明してくれた。自分にはとても呑(の)み込(こ)めない。けれども合点(がてん)の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承(りょうしょう)した。そこで羽衣(はごろも)の曲(くせ)を謡い出した。春霞(はるがすみ)たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩(くず)れるから、萎靡因循(いびいんじゅん)のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓(つづみ)をかんと一つ打った。

 要するに日高君の御説ははなはだごもっともなのである。けれども余のコンラッドを非難した意味、及びこの意味において非難すべき作物をコンラッドが書いたと云う事も、日高君が承認されん事を希望する。
 この答弁は日高君に対してのみならず、世間の読者のうちで、まだコンラッドを知らずして、余の説と日高君の説の矛盾だけを見てその調和に苦しむ人のために草したのである。

 其上(そのうへ)艇長の書いた事には嘘を吐(つ)く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等(これら)の現象に自己広告は平時と雖(いへ)ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡(すべ)ての苦悶を忍んだので、他(ひと)によく思はれるがために、徒(いたづ)らな言句(げんく)を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又其(その)報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他(ひと)の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。

 夫(それ)だから読者の受ける感じの中には、著者が非常に苦心したなと云ふ自覚が起ると同時に、それが自分の額に反映して読む事が既に苦しくなる場合もある。又事件があまり派出(はで)に並んでゐるために、(其(その)調子は厭(いや)に陰鬱ではあるけれども)殆んどセンセーシヨナルな安つぽい小説と脊中合せをしてゐる様な気も起る。